1 S t i n t


「あなたたち、バカなの?」

 頭が痛い……というようにけんをつまんで言ったのは、会長こと、我が校の生徒会長、ななさん。言ってすぐ「違うわね」と首を振り、プレゼン用のスクリーンの前に立つ、長身で大人の雰囲気を持つ女子生徒に顔を向ける。

ぎゃく、あなたやっぱりバカなの?」

「ちょっと美奈、なんで私限定なのよ。しかも『やっぱり』ってどういう意味よ!?

 天川高校自動二輪車りゅうきょうの瘧師きょう部長が、机から体を乗り出し憤慨する。

「私が今言ったことに、説明がいるの?」

「ほーう。美奈とはいつかケリをつけなきゃいけないと思っていたのよ。表出なさい!」

 親指で外を指し示す部長に、バカも休み休み言いなさい、と会長が手を振っていなす。

「どうせまた、あなたがこんなバカな計画をぶち上げて、屁理屈こね回して部員を無理やり巻き込んだんでしょう」

 同席のえいが首を縦に大きく振り、さいとうは気まずそうに顔を背ける。

「ちょっと英子、なに頷いてるのよ!? はやくん、こっち見て!」

「学校をサーキットにして〝校内レース〟するなんて考えるの、あなたくらいなものよ」

 竜競部はこの夏、とち県にある国際サーキット、ツインリンクもてぎで行われた、もてぎ7時間耐久バイクレース〝もてたい〟に参戦した。

 もて耐参戦の準備には、大人でも一年は要するのに、僕らに与えられた時間はわずか五ヶ月弱。準備は参戦費を賄うスポンサー探しに始まり、スポンサー探しに終わったと言っても過言じゃない。もて耐の参戦費用、なんと150万円。同時進行で、練習走行のために片道140キロのもてぎに通い、メカニックの知識まで詰め込んだ。さらにさらに、レースの目標は15位以内。これはいきなりインターハイを狙うような高い目標だ。

 その計画をぶち上げたのが、バカ呼ばわりされてご立腹の部長だ。

 僕も最初は、高校生がスポンサー集めなんて無理だと思った。でも部長の行動力に裏打ちされた計画と熱意に、あれよあれよと巻き込まれて、気がつけばスポンサー集めに奔走。そして、一日やそこらでは語り尽くせぬ、悲喜こもごもの末に掴み取った参戦だった。

 レースは目標の15位にもう少しで手が届く、というところまで善戦したが、僕のミスで51位に終わった。悔しくて、今でもあの瞬間を思い出すと鼻の奥がツンとなるけど、得るものは大きかった。

 僕の幼馴染で、極度の人見知りの和泉いずみ英子は、見違えるほどたくましくなった。プロレーサーを目指していたが、家庭の事情でレース活動を休止していた斉藤隼人は、晴れ晴れとした表情でもて耐を快走した。

 意気地なしだった僕、いまむらしんは、ちょっとは〝いい男〟に近づき、大人になるとはどういうことか、その大いなる疑問の尻尾を掴んだと思う。

 そして瘧師部長は、幼い頃から追い続けた夢に自ら幕を下ろし、次なるステージに踏み出す決断をした。そう決断できたのは僕らのおかげだと、部長は言ってくれる。

 正直、苦しいことの方が多かった。多かったけど、その分僕ら四人は成長できた。

 忘れられない思い出になった、熱い、本当に熱い夏だった。

 だった、なんて過去形だけど、あれからまだ三週間ちょっと。もて耐のことを語り出すと止まらない。もてぎから持ち帰った熱で、僕らはまだ熱々だ。

 そうして夏休みが明けて二学期。耐久レース風に言えば、竜競部は第2スティント活動期に向けて動き出そうとしていた。

 二学期が始まり、早々に行われたミーティングで部長は、十月中旬に行われるてんりゅうがわ高校の文化祭、てんりゅうさいで、もて耐参戦報告会をやろうと言い出した。

 報告会はすごくいいと思ったけど、うちの部長がそれだけで終わるはずなかった。

 かっこいいバイクとライディング走りを全生徒に見せたいと、校内レースなんてバ──もとい、無茶な企画を、これまた満面の笑みでぶち上げたのだ。

 僕もさすがに無理なのではと思い、英子はそんな危ないことができる訳ないと顔を真っ赤にして怒り、斉藤はすでにろうらくされていて「ちょっとおもしろそう」と気まずそうに口にして、英子を絶望の淵に追いやっていた。

 しかしそこは部長。ちゃんとした計画があった。もて耐参戦計画の時と同じように、女子高生とは思えない熱弁で校内レース企画をプレゼン説明し、確かにそれならできるかもと思わせられるのだから、さすがとしか言いようがない。

 当の部長が、腕を広げ、全員に顔を向ける。

「みんなで話し合って決めたじゃない。私に散々ダメ出しして、企画をブラッシュアップしたの英子じゃない!? そうよね、心くん!」

「あの会長……ほんとにすみません」

 なんで謝るのよぉ心くん! という悲鳴を尻目に僕は続ける。

「でも、部長の言う通りです」

 関係各所に協力を仰ぎ、ちゃんと校内レースを実行できる体制をつくった。

「校内レースができるように全員で考えました。それは今説明した通りで──」

「それはわかってる」

 会長が手で遮る。部室に会長を招いて、校内レースのプレゼンを聞いてもらった。その感想が「バカなの?」だったのだけど……。

「ほんと、感心させられる。確かにこれならできるかもと思ったもの。しかし校内でレースしようなんて、バカと天才は紙一重とは、よく言ったものね」

 私はバカの方ね、と目を三角にする部長をなだめ、僕は尋ねる。

「なら、校内レース開催に生徒会のご協力を頂ける、ということで……いいですか?」

「そうね……」

 僕らの頭の上にハテナが浮かぶ。たぶん会長は、校内レースを前向きに捉えてくれている。なのに、この歯切れの悪さはなんだろう……。

 あーわかったぁ、と部長がわるだくみな顔で言って、

「うらやましいんでしょ、美奈」

 うやらましい? 会長が? 頭の上のハテナがふたつになる。

「私知ってるんだからね。もて耐フィニッシュの瞬間、竜競部のもて耐参戦を阻んだ生徒会長、七尾美奈の目に光るものがあったことを!」

 部長が芝居がかった身振りで、びしっと会長を指差す。

「私たちがもて耐に挑戦してる姿に感動して、うらやましくなって、自分も仲間に入りたい。でも今更そんなこと言えない! だから校内レースももったいぶってるんでしょ!」

「部長ぉ……」

 僕だけじゃなくて、英子も斉藤も冷ややかな視線を部長に送る。

 もて耐参戦を、英子のミニスカ作戦を黙認する形で認めてくれた時、参戦する以上、竜競部に相応しい結果が必要だ、と会長は言ってくれた。そう言うなら手伝うのが筋だと部長が言い張り、会長をヘルパー兼サインマンとしてもて耐に駆り出した。酷暑の中で7時間ぶっ通しでサインマンをやるはずだった英子は、かなり助かっていた。

 そしてフィニッシュの瞬間、会長の目には確かに光るものがあった。

 会長なりに僕らのがんばりを認め、感動もしてくれた。会長には恩義がある。感謝している。それを茶化すなんて、まったくこの人は……。

「えぇ、感動したわ」

 言ったのは、当の会長。

「屁理屈こね回して、あなたにはあきれさせられてばかりだけど、一日手伝うくらいならいいかと思った。それに、あなたたちがどんなに苦労したかは知っていたし。そこまでして挑むレースがどんなものか、この目で確かめたいって気持ちもあった」

 会長がソファーから立ち上がり、壁際に立って、それを見上げる。

 額縁に収められた、もて耐での集合写真。その中には会長もいる。

「この目で見たレースは、私が思っていたのものとはまったく違った。レースはバイクを用いた、奥の深い、まさにスポーツ。あれは現場に行かないとわからないかもしれない。騒音を撒き散らし、なにより危険で、高校生に相応しい競技じゃない。そんな印象だけで判断していたことを反省した。だから手伝いも、真剣にやらせてもらった」

 会長が、僕らに向き直る。

「斉藤くんはレインマン隼人ね。素人の私でもあなたの速さはわかった。でもサーキットにいる時と、学校にいる時とで全然人が違うんだもの、驚いたわ。和泉さん。サインマンの仕事は暑かったけど、ワクワクしたわ。今村くんはやっぱりあれよね。バイクを押して帰ってきた時の君は、映画の主人公みたいでかっこよかった」

 会長は微笑みながら、もて耐を振り返る。そして最後に、部長に顔を向けて、

「瘧師は部長の役目を立派に果たした。自分の夢にも区切りをつけて、次の一歩を踏み出した。なかなかできることじゃないと思う。あたなは名実ともに、竜競部の部長よ」

 会長は知っている。部長が自分の夢と引き換えに、もて耐参戦の切符を掴んだことを。

「もて耐、参加してよかった。一丸となって目標に挑むあなたたちが、まぶしかった……。そうね。瘧師の言う通り、うらやましかった」 

 僕は唇を噛んで、こみ上げてくるものを懸命に堪えていた。

 こんなの、不意打ちだ。

 会長の率直な賛辞に、苦労が報われ、救われたような気持ちになり、あの感動が胸の奥からよみがえってくる。

 口に手をあてた英子も、背筋を伸ばした斉藤も、きっと同じ気持ちでいる。

 驚いてもいた。会長がここまで僕らを認め、しかもうらやましいと思っているなんて。

「だ、だったら校内レースも応援してよ!」

 顔面で戸惑っているレアな部長に、会長はくっと笑って、

「応援するわよ」

「じゃあなんで意地悪言うのよ!?

「素直に認めるのしゃくじゃない。ちょっとした仕返しよ」

「やだ、しい」

 思わぬ会長の逆襲にあんぐり口を開けた部長を、英子が笑う。斉藤は背を向けて肩を揺らす。僕は口を両手で押さえて笑うのを堪える。部長がすごい顔で僕を睨んでいるから。

 でも意外だ。会長ってこんなこと言う人だったのか。こんなほがらかな笑顔も初めて見た。

 スポンサー集めをしている頃、報告書を生徒会室に届けるのは僕の役目だった。会長は生徒会室でいつもひとりで、生真面目、というより無表情。他愛のない会話で、微笑むことはあったけど、それもすぐに寂しさで塗りつぶすみたいに消えてしまう。

 そう。生徒会室にいる会長はいつも、どこか寂しそうだった。

 だからたぶん、気づいたのは僕だけだと思う。

 初めて目にした会長の笑顔にも、寂しさが透けて見えたことに。



かんよ。激しく遺憾よ! 竜競部崩壊の危機だった。エンジンブローよ!」

 会長が生徒会室に戻った後、スクリーンの前で仁王立ちした部長が声を上げる。

「そんな大げさな……」

 ソファーに腰掛けた英子が苦笑いして言うと、

「大げさじゃない! 竜競部の結束がほつれるんじゃないかって、私ショックだったんだからね!」

 部長の声音は思いの外切実に響いて、英子の表情から苦笑いが滑り落ち、

「……部長、ごめんなさい。部長にはいつも先を行かれちゃうし、敵わないから、会長に苦戦してる部長を見て、調子に乗っちゃいました」

 すると部長は、無言でスクリーンの前を出て、英子の隣にどすんと腰を落とす。

「英子の意地悪!」

 抱きつこうと腕を伸ばしてきた部長に、英子は咄嗟に両腕を突っ張って阻止。

「もう、またぁ! 抱きつくのはやめてくださいって言ってるじゃないですか!」

 自身がスペインの帰国子女であることがバレて以降、部長のスキンシップは頻度が上がっていた。バレる前は帰国子女であることを隠すために、一応控え目にしていたらしい。

「どうしてよぉ、ハグは愛情表現の基本でしょ」

「だ、だから、そういうこと大きな声で言わないでください!」

 ハグは断念して、ソファーに座り直した部長が不満げに口を開く。

「日本人はもっとハグ、というかスキンシップすべきよ。スキンシップするとストレス発散になって、精神的に安定するって研究結果があるのよ」

 きっと部長の言う通りだ。部長にハグされたことは何度かあるけど、僕は一度だけ、部長に抱きしめられたことがある。

 僕が僕のために、部長の秘密を暴いた、あの時──

 部長を傷つける。そうわかっていて、本当に傷つけてしまったのに、部長はありがとうと言って僕を抱きしめてくれた。

 その言葉に、部長のくれるやさしさに、どれだけ僕は救われたろう。

 かくして部長の秘密は、僕ら全員の知るところとなった。

 スペイン帰りの帰国子女だということ。プロレーサーの夢を叶えるために、スペインードレース選手権に参戦していたこと。そして、夢に破れたこと。

 いつかバレるだろうと思っていたと言っていたし、折を見て話すつもりだったらしい。部長は自身の身の上や、スペインでの暮らしぶりを話してくれるようになった。

 それはバレる原因になった僕に、後ろめたさを感じさせない気遣いであり、単純に部長がしたいことだから。バイクの魅力をあれだけ熱弁する人だ、自分の好きなことや楽しいことを分かち合いたいんだと思う。スキンシップの頻度が上がるオプション付きで。

「ほら、これ見て」

 ちょっと前に、部長が手帳型の分厚いアルバムを僕らに見せてくれた。

「これがモニカ。私のお母さん」

 焼き付いた日付から、たぶん十四歳の部長と、黒人の女性が頬をぴったりくっつけて、今にも飛び出してきそうな笑顔で写っている。モニカさんは、映画『天使にラブ・ソングを…』の聖歌を楽しく歌う、あのシスターさんをふくよかにした感じだ。

「モニカさんが、部長のお母さん……なんですか?」

 部長は目鼻立ちが日本人離れした美人だけど、両親とも日本人のはず。

「お母さんも同然って意味。うちの両親、ほとんど家にいなくて、私が幼い頃から家政婦さんがいたの。それがモニカ。モニカも私のこと自分の娘だって言って、ぎゅーっと抱きしめて、キスも一杯してくれた。私がいけないことしたら本気で叱ってくれた。本当に、私のお母さんだった」

 部長が視線を遠くにやり、目をつむる。

「泣いたなー。スペインを離れる時、モニカにさよならした時は枯れるほど泣いた。モニカも大泣きで、苦しいくらいきつく抱きしめてくれた……。モニカに会いたいなぁ」

 あの時の部長は、結構長い間、目を瞑ったままでいた。

 部長はこれで、寂しがり屋なんだと思う。

 部長のスペイン話はおもしろいけど、びっくりするほど両親の話が出てこない。

 ほとんど家にいないという両親。モニカさんだって、ずっと家にいてくれた訳じゃないだろう。独りぼっちの夜を、いくつも数えたんじゃないか。

 以前部長が言っていた。父親の貿易会社を継ぐ約束を破って大ゲンカして、未だに親子の仲は険悪。会社を継ぐことと引き換えに、もて耐のスポンサーになってもらった時は、一体どんなふうにお父さんに頼んだんだろう。その後、仲直りしたとは聞いていない。

 なにかと秘密が多かった部長だけど、その秘密が明らかになったことで、新たな秘密が生まれた。いいや、秘密にしていない。訊けば答えてくれると思うけど、そうはしない。

 僕らは触れた。己のすべてを懸けて夢に挑み、そして破れ、傷ついた。それを最後の最後まで僕らに秘密にした、部長の柔らかいところに。

 だから、慎重になる。

 部長の中にひとつ、寂しさがある。

 スキンシップはモニカさんの影響だろうけど、部長はその寂しさを、スキンシップをとることで分かち合っているんじゃないか。

 部長に抱きしめられて、僕は救われたけど、きっと部長も救われていた。

 楽しいことを分かち合うように、寂しさも分かち合う。

 僕らと気持ちを分かち合ってくれる。それが素直にうれしい。両親のことだって、その時が来たら、部長は話してくれる。それまで、僕は待っていたいと思う。

 そんな訳で──

 部長は頬に手をあて、目の下のほくろを指先で触れた後──

「またぁ!」

 英子がすばやく体をひねってハグを回避。今じゃ部長のあしらい方も心得たもの。

 でも、きっと英子もわかってる。

 女子ふたりがかしまくしているのを、僕と斉藤は目だけで会話して、笑い合う。

 我ら竜競部、第2スティントに入りましたが、相も変わらず賑やかです。


* * *


 僕らは相も変わらずだけど、もて耐参戦後の竜競部には大きな変化が訪れていた。

 まず二学期始業式の壇上で、竜競部がもて耐でベストチーム賞を受賞したことが紹介された。それをきっかけに、もて耐のホームページで竜競部が紹介されているのを見つけ、教室で話題にした生徒がいたらしい。それで竜競部のもて耐参戦の軌跡が学校中に広まった。みんな口々にかっこいいと褒めてくれて、照れくさかったけど、すごく誇らしかった。

 意外だったのは、その後も竜競部の話題が続いていること。よその部活なんて基本他人事。すぐに忘れられると思っていた。

「心くん、胸を張りましょう。私たちはそれだけのことをやってのけたのよ!」

 部長の、雲を吹き飛ばすような一言に、僕はうれしくなって背筋を伸ばした。

 竜競部だけじゃなくて、バイクに対する見方も変わってきているような気がする。もしかしたら、入部希望者が現れるかもしれない。

 竜競部は今、ビッグウェーブに乗っていた。

 そうしてクラスメイトから連発されるのがこの質問だ。

「今村、おまえはどんなバイク乗ってんだよ?」

 なぜかみんな、竜競部の部員は個人的にバイクを所有していると思っている。

 もて耐でCBR一台を走らせるのに、あれだけ苦労したんだ。一介の高校生である僕が、何十万もするバイクを買えるはずがない。それで持ってないと答えると、なぜかがっかりされる。がっかりしないでよ。僕だってほしいのは山々なんだよ!

 バイクに乗りたい。サーキットを走りたい!!

 最後にバイクに乗ったのはもて耐の決勝。三週間ほど前で、とっくにバイク成分は枯渇。一般道でもいいからバイクで走りたい。でもバイクなんて部長ですら持ってない。なのにクラスメイトにバイクのことをあれこれ訊かれて、バイク熱は蓄積するばかり。

20万かぁー……」

 僕は部室のソファーにふんぞり返り、手にしたパンフレットを天井にかざす。

20万? 心くんバイク買うの!?

 机でノートパソコンに向かっていた部長が、にゅっと長い首を伸ばす。金額からバイクに直結するあたりは部長らしいけど、バイクに乗るには法律的に必要なものがある。

「教習所の料金です。もちろんバイクもほしいですけど」

 入所からバイクの免許を取得するまでに、だいたい20万円かかる。

「心くんは、どんなバイクに乗りたいの? やっぱりCBR?」

 CBR250RRはもて耐でたらふく走ったけど、もし買えたら、またサーキットでスポーツ走行したくなる。趣味でスポーツ走行は金銭的にハードルが高すぎる。そうなると街乗りバイクに興味がいく。

「実は、この間カタログもらってきたんです」

 バッグから取り出して見せると、部長が「買う気満々じゃない」と僕の隣に腰を下ろす。

「また正反対の選んだわね」

 それが、カタログを見た部長の感想。

 CRF250RALLY。

 径の大きなブロックタイヤを履き、大きなストロークを確保する長いフロントフォークを装備した、背の高いオフロードバイク。部長の言う通り、CBRが走るオンロードとは正反対の、オフロードを走るバイクだ。

 ラリーとは超長距離耐久レースのことで、パリ・ダカールラリーが有名。林道などの未舗装の道、時には砂漠を何日にもわたって走り抜くクレイジーなレースだ。

 CRF250RALLYはその名の通り、CRFシリーズのラリー仕様。縦長のスクリーンに二灯ヘッドライトを装備。長距離を走れるように燃料タンクは大容量化されている。

「これでツーリング行ったら楽しそう。林道とか走ってキャンプして、夜は星見たり。そういうのって、バイクならではだと思って」

「素敵。みんなでツーリング行きたいね」

「しかし70万かぁ」

 CRFのお値段に、もう一度天井を仰ぐ。そもそも、バイク自体が高嶺の花だ。

「ローンで買えばいいじゃない」

「ローンですか?」

 思っても見なかった部長の提案に、変な声が出てしまう。

「ダメですよローンなんて。ローンって、要は借金じゃないですか!」

 僕が思ったことを、英子がいつもの調子で代弁してくれる。

「あら、借金は悪いことじゃないのよ。借金をするって、未来に臨むってことよ」

「またそんな、屁理屈言って!」

 憤慨する英子に、部長は腕を広げる仕草をつけて、

「屁理屈じゃないわ。たとえばバイク事業を興して、生産工場を建てるとするでしょ。その建設費は借金で賄う。事業を興すって、その人の夢や希望を叶えようとすることでしょ。借金はあくまで手段だけど、未来に臨むと言っても、間違いじゃないでしょ?」

 なんてハイレベルな屁理屈。これが経営者の両親を持つ、跡継ぎ娘の考え方なんだ。

「やだ英子、かわいい」

 ぐうの音も出ないけど、言い返したくて変な顔になっている英子に、部長が破顔一笑。

「十代にしてローン持ち。レーサーっぽい。いい男よ、心くん」

「またそんなバカなこと言って! 会長に通報しますよ!」

「も~冗談でしょ英子。って、美奈に通報ってなによ!? 私、罪人!?

「心はどこにでもいる、ただの高校生なんです! ローンなんてダメです!」

 微妙に心外だけど、さすがにローンは……。

「英子の言う通り。高校生はローン組めないから、お金貯めるしかないわね、心くん」

 安堵というより脱力している英子に、斉藤が尋ねる。

「和泉はバイクに乗りたいとか、思うか?」

 そういえば、という質問だった。英子はもて耐でピットクルーの仕事をやり遂げたけど、バイクに乗りたいとは聞いたことがない。僕も答えが気になって耳を傾ける。

 英子は、少し迷ったそぶりを見せてから、

「……ちょっと、乗ってみたいかも」

 部長が嬉し顔になって、思い切り前のめりになって──どんなバイクに乗りたい?

 英子はかわいくて、楽しく乗れそうなバイクとして、モンキーと答えた。

 Monkeyモンキー125。子供用の浮き輪サイズのタイヤに、小ぶりなタンク。子供向けと言われても違和感のない小さな車体。その名がぴったりなファンバイクだ。

「いいじゃない! モンキー」

「でもあたしも、買えたらいいなって話で……」

「買えるよ。買おうよ! 買ったら一緒に走ろ英子。絶対楽しい!」

 部長が満面の笑みで、手を招き猫にしてアクセルを吹かす仕草をつける。

「だから、いいなって話で。斉藤くんは? 斉藤くんはどんなバイクがほしいの?」

 部長の買おう買おう攻撃から逃れるように英子が尋ねる。

「NSF」

 斉藤が即答する。

 NSF250R。ホンダのレース部門会社、HRC、ホンダレーシングコーポレーションが販売している競技用バイクだ。HRCは世界最高峰のバイクレース、MotoGPに参戦しているレースファンには名の知れた名門会社だ。

「NSFでレースするのが夢だけど、レースできるなら、バイクはなんでもいい」

 なんとも斉藤らしいけど、それで僕は思い出す。

「……そういえば、レーシングチームからオファーとか、来た?」

 そっと尋ねると、斉藤は首を横に振った。

 斉藤が竜競部に入部したのは、明確な理由がある。

 世界的金融危機で斉藤の父親、ひでゆきさんの勤める会社が経営危機に陥った。それでレース費が捻出できなくなり、斉藤はレース活動の休止を余儀なくされた。レース復帰を懸けてスポンサーを探したが、ことごとく断られたそうだ。当時の斉藤は中学生。大人と同じことを中学生がしていた。

 そしてレースをする部活、竜競部を知り、迷わず天竜川高校に入学。もて耐に挑むことになる。もて耐ならMotoGPの日本GPグランプリが開催されるサーキット、ツインリンクもてぎを走れる。その上もて耐は業界では有名なレース。いい走りで目立てばプロの目に留まり、オファーが来るかもしれない。それが斉藤の行動原理で、すべてだった。

 僕らはもて耐参戦を果たし、斉藤は強い走りを見せた。特にレインコンディションでの速さはかなり目立って、パドックでも評判になっていた。

「来るかもしれないって話だから。そもそも、もて耐はスカウトの場でもないし」

「そっか…………。え? ちょっと待って。スカウトの場じゃないの!?

 斉藤は片眉を持ち上げ、

「じゃないぞ」

「でも前言ってたじゃん。もて耐でいい走りをして目立てば、プロの目に留まるかもって。それって、もて耐がスカウトの場ってことじゃないの?」

 斉藤は首を一度だけ横に振って、

「もて耐なら、他と比べてプロの目に留まりやすいってだけだ」

 僕は驚きのあまり、固まってしまう。

「俺、なんか誤解させてたか?」

 斉藤が申し訳なさそうに首を引っ込める。

 もて耐に参戦する。それだけで十分困難な道だ。それでも斉藤がもて耐に挑んだのは、困難であろうとも挑む価値が、レース復帰に繋がる道が、そこにあるから。

 ──なぜなら、もて耐はスカウトの場だから。

 話の流れから、僕がそう勝手に解釈をしていた。でも、それはつまり──

「来るかもしれないって、本当にその言葉のままの意味で、たとえもて耐で評判になっても、オファーが来る確率はほとんどないってことなの?」

「まぁ、オファーが来たら奇跡だな。オファーする側の人間がたまたまもてぎにいて、たまたま俺の走りを見て、その上ちょうどライダーを探していて、そして俺をほしいって思ってくれなきゃいけない。そんな偶然が重なって、ようやく起こる奇跡だな」

 僕は唖然として、言葉をくしてしまう。

 そんな、いちの望みともつかない可能性に懸けていたなんて……。

「なにもしなければ確率はゼロだろ。前に言ったろ。レースにはそういう奇跡がある」

 僕は斉藤を見誤っていた。

 もて耐で評判になっても、オファーが来る可能性は限りなく低い。斉藤はそれを承知で挑んだ。

 ──なぜか?

 レースに復帰しようと懸命に模索し、ようやく見つけた、唯一の希望だったからだ。

 もてぎで、斉藤は僕に言い切った。

「俺はMotoGPレーサーになる夢を、絶対あきらめない!」

 それは意気込みや目標の類じゃない。今ならはっきり言える。斉藤は本当にあきらめないんだ。奇跡を掴むような話でも、可能性が僅かでもあるなら、全力で挑む。

 それが、斉藤隼人なんだ。

「オファーは来てないけど、来シーズンはまだ先、ストーブリーグはこれからだ」

 普通の口調で斉藤が言った。でも今なら見誤ることはない。

 斉藤は本気でストーブリーグに挑む。斉藤の戦いは、これからが本番なんだ。

 胸の奥から熱くこみ上げてくるものを感じる。比喩じゃない。本当に熱いんだ。

 それは僕が生まれて初めて抱く、尊敬の念だ。



 かげりだした帰りの通学路を、僕は英子と、自転車を押した斉藤の三人で歩く。部長は家が反対なので、この三人で帰ることがほとんどだった。

「公共料金の支払い票出されたら、どうすんだっけ?」

 英子に尋ねたら、まだ覚えてないのぉ、とあきれられてしまう。

「支払い票のバーコードを読み取るだけでしょ」

「いや、そうなんだけど、昨日、固定なんたら税が」

「固定資産税」

「そうそれ。初めて見た支払い票でパニくった。支払い票だけでいくつあんだよ」

「コンビニの仕事は覚えることだらけって、本当なんだな」

 頭を抱えて嘆いていると、斉藤が可笑しそうに言う。

 僕と英子は、もて耐でスポンサーになってくれたもりさきさんが経営するコンビニで、バイトを始めていた。

 免許を取るにもバイクを買うにも、先立つものが必要。森崎さんにバイトしたいと相談したら、人手不足だったこともあり、心ちゃんなら大歓迎と面接も履歴書もなしで即決。それを聞いた英子もバイトしたいと言い出して、これも即決。

 人見知りの英子に接客業なんて務まるのかと思ったけど、スポンサー集めの経験は伊達じゃなかった。愛想がいいとまではいかないが、ちゃんと接客できる。数あるコンビニ業務も端から覚え、今じゃ僕が英子にヘルプを求めること多々。バイトを始めて二週間になるけど、僕はまだ半分ぐらいしか覚えられていません……。

「そうだ。このあいだ斉藤くんが大きなトラックに給油してるの見たよ。きびきびお仕事してて、もうベテランって感じだった。さすがだね」

 英子が体を前に倒し、僕越しに声をかける。

 斉藤はもて耐が終わってすぐ、ガソリンスタンドでバイトを始めた。もちろんレース復帰のため。その行動力に驚いたけど、斉藤にしてみれば当然のことだと、今ならわかる。

「そうか……」

 斉藤が気恥ずかしそうに自分の耳たぶをいじり、バイトは初めてじゃないからと続ける。

「ほんとはいけないんだろうけど、中学の時、縁日の露店でバイトしてた。あと内職の仕事は今もしてる。本当は普通にバイトしたかったんだけど、中学生じゃ無理だから」

「新聞配達とかって、できなかったの?」

 僕が尋ねると、あれは奨学制度なんだ、と斉藤が答えた。

「あの仕事をするには学校の承認がいるし、小遣いがほしいって理由じゃ駄目なんだ。家計に入れるとか、中学生でも働かざるを得ない事情がないと認められない。俺は小遣いがほしかったんじゃなくて、自分の将来のために、レースをやるためだったんだけどな。レースは遊びなんだと。家の負担を減らしたいってのもあったのに」

 見えないなにかに向かって、悔しそうにする斉藤。

 実際に新聞配達の仕事をしようとして、認められなかったんだろうな……。

 出会ったばかりの頃の斉藤はとっつきにくくて、見下されて、好きにはなれなかった。

 今はもちろん、そんなネガティブな気持ちはない。

 チャンスを掴み取って、夢を叶えてほしい。その気持ちがより一層強くなった。

「僕にできること、あったら言ってよ」

 そう言うと、斉藤は眉を少し持ち上げて、僕の肩に拳をコツンとあてる。

「俺がレースに出る時、ピットクルー頼む」

「うん、任せてよ。メカニックだって、なんだってやるよ!」

「あたし、サインマンやる。やっていい?」

 英子が手を挙げ、斉藤が学校じゃあまり見せない笑顔になる。

「いいに決まってる。むしろ頼む。和泉がサイン出してくれたら、めちゃくちゃ心強い」

「うん!」

 英子が大きく頷いて応える。心を許しているとわかる、明るい笑顔で。

「それじゃ俺、バイトでこっちだから。また明日な!」

 斉藤が自転車に跨り、言うが早いかペダルをうれしそうに踏み込む。

「オファー、来るといいね」

 当人は知ってか知らずか、あっと言う間に小さくなる背中を見送りながらつぶやく。

「来るさ」

「そうだよね。来るよね!」

 英子が声を弾ませ、僕らは駅に足を向ける。

「斉藤は、本当にすごいよな」

 この春、僕はやりたいことを見つけたくて新入生歓迎祭に臨み、竜競部とバイクに出会った。バイクへの想いは、もて耐を経て決定的なものになった。

 バイクが好きだ。レースが好きだ。サーキットを攻める楽しさは、ほかの何物にも代えられない。バイクが僕のやりたいことだ。

 なら、プロレーサーを目指す?

 自分に問いかけて、それは遠く、うまく想像できなかった。

 バイクに関わる仕事に就くことも考えたけど、バイク雑誌を読むと、バイクとは関係ない職業に就き、趣味としてバイクを楽しんでいる人の方が多いように思う。

 僕も普通に就職して、バイクを趣味にするのだろうか。

 それは嫌だ。僕にだって意地がある。

 竜競部にいたから今の自分がある。そう胸を張って言える大人になりたい。

 だからなおさら、斉藤はすごいと思う。自分の夢に竜競部を明確に繋げている。

「斉藤くんの夢が叶ったら、海外にいる時間の方が長くなっちゃうんだよね」

 英子が言う。そうだ。斉藤の夢はMotoGP。世界選手権に参戦するレーサー。オフシーズンの時にしか日本にいない。そんな生活になるらしい。

「寂しいけど、夢を叶えてほしいよね」

 もちろん、僕もそう願っている。

「英子はやりたいこととか、あるの?」

 ふと思い立って、尋ねてみる。

 英子は「えー」と語尾を上げる、もったいぶった言い方をして、

「ひとつあったけど、最近ふたつになった」

「あったの!?

 ちょっと驚く。だって英子は、大人になりたくない、今のままがいいと言っていたんだ。

「あたしだって、やりたいこと、あるよ」

 不服そうに、口をとがらせて、

「英語をマスターしたいんだ。英語が話せたら、世界がうーんと広がると思うの」

「ふーん。英子って、そんなに英語できたっけ?」

「So, answer me Shin Imamura. What did I say?」

 妹分の思わぬ高い目標に慌てた兄貴分のダサいセリフに、英子は英語で返してきた。

「ちょっと、日本語で言えよ!」

「心が英語の勉強をすればいいんですぅー」

「それ、部長の影響だろ」

 それはそれはびっくりしたのだけど、部長はバイリンガルなのだ。

 ある日の部室で、部長の携帯電話が鳴って、全員が目をまん丸にした。流暢を通り越して、ネイティブな英語で会話し始めたからだ。

 帰国子女だから英語が話せても不思議はない。でもスペインにいたのに、なぜ英語なのか尋ねたら、貿易商は英語がスタンダードなんだそうだ。

「そうだよ」英子は口を尖らせて「でも、自分で決めたことだもん」

 英子はもともと勉強ができるし、さっきの英語の発音も様になっていた。というかヒアリングできなかった……。部長といれば、英語をマスターする日は遠くないかもしれない。

「そんで、もうひとつはなんだよ」

「えー」またもったいぶった言い方をして「もうひとつは秘密」

「なんだよ、秘密って」

「秘密は秘密だよ。It,s my secret. I cannot tell, especially for you.」

 うれしそうにリズムをつけて言う。日本語使えよ!

「英子まで、日本からいなくなるのかよ」

「え? なんであたしがいなくなるの?」

「英語マスターしたら世界が広がるって、部長や斉藤みたいに世界に飛び出すんだろ。それが英子のやりたいことだろ」

「飛び出さないよ。英会話の先生とか、英語を活かしたお仕事は日本でも一杯あるよ」

 まぁ、そうだけど。

「正直言うとね、英語をマスターして、それで具体的になにをしたいかは、まだないんだ。でも英語話せて損はないし、就職とかでも有利だと思うから」

「ふーん」

 僕は生返事をする。

「もしかして心、あたしがいなくなったら寂しい?」

 揃えた指先を口にあてて、英子が言う。

「英子さぁ。そういうのも部長の真似してんだろ」

「さぁ、どうでしょー」

 いじわるな笑顔になって、ほら、真似てるじゃないか。

 僕だけ日本に置いてきぼりは……まぁ寂しいかもな。絶対言わないけど。

「そうだ。部長の会社に就職して、部長の部下として働けばいいんだよ。英語活かせる」

 僕がそう言うと、嫌! 絶対嫌! と英子は頭を抱えて声を上げる。

「満面の笑みを浮かべて、無茶振りしてくるに決まってるんだから!」

「だな」

 薄暗くなり始めた空に、僕らの笑い声が溶けていく。

「僕にできること、あんまりなさそうだけど、英子のやりたいことなら応援するよ」

 英子が背中をちょっと前に倒し、僕の顔を覗き込んできて──ほんとに?

「ほんとだよ」

 だって、いいことじゃないか。あの英子が、僕の背中から飛び立とうとしている。

「あたし、やりたいことひとつ秘密にしてるよ。それでも応援してくれる?」

「変なことじゃなければ応援するよ」

「全然変じゃないよ。約束だからね!」

 英子は僕のシャツの袖を掴み、ちょっと声を大きくする。

「あたしも心のやりたいこと応援する。心のやりたいことは?」

 バイクに関わるやりたいことを見つけたい。でもまだバイクという尻尾を掴んだだけで、明確にはなっていない。そんな自分を、ありのままに話して聞かせた。

「わかる気がする。あたしが英会話をマスターした後、どうするか言えないのと同じ」

「人生は、果てしないなぁ」

 僕は両腕を挙げ、伸びをしながら空につぶやく。

「なら……やりたいこと、一緒に探そうよ」

 英子の言葉は、思いの外、心強く響いた。

 素直にそう言えばいいのだけど、とりあえず頷くだけにしておく。

 とその時、アラーム音が鳴り響く。

「心いけない。のんびりしてたらバイトの時間だよ。遅刻しちゃう。走ろ」

 英子が携帯電話の時計を僕に見せる。

「やっべ! 英子バッグ貸せ。僕が持って走ったほうが早い」

「わかった。ありがと心」

 差し出されたバッグを受け取って、

「重っ! なに入ってんだよこれ!?

 教科書と英会話の本に、竜競部の資料ー! と英子が後ろを振り返りながら声を上げる。

「ちょっと、待ってくれよ」

 英子の未来がずっしり詰まったバッグを胸に抱え、僕は駆け出す。


* * *


「おはよ」

 朝の通学路、後ろを振り返ると自転車を手で押した斉藤だった。

「やだ、斉藤くん濡れてるよ」

 英子がバッグからタオルを取り出し、斉藤に差し出す。

「サンキュ。和泉はこの雨も予知できたのか」

 斉藤が、濡れた頭をタオルで拭いながら尋ねる。

 今朝、窓の外に目をやると、今にも泣き出しそうな雲が空を覆っていた。家を出た時は降っていなかったが、電車の窓に雫が付き、駅を出る頃には小降りの雨になっていた。

 英子は得意顔で、手にした傘を持ち上げて見せる。おかげで僕も濡れずに済んだ。

 癖っ毛の英子は、雨が降ると髪が爆発してしまう。天気を気にするうちに、匂いで雨が降り始めるタイミングが予知できるようになった。この特技をもて耐で活かして、竜競部の順位をジャンプアップさせる道をつけた。

「ごめんね。斉藤くんにも連絡すればよかった」

「そしたら雨の度に連絡することになるから、悪い」

 全然いいのに、と英子はんで、斉藤に傘を渡して僕の傘に入る。

 そのまま斉藤に付き合って、正門手前にある自転車置場の出入口から校内に入る。天竜川高校にはやたらと広い自転車置場があり、正門とは別に専用の出入口が設けられている。

「今年は、秋の長雨だな」

 斉藤が自転車のスタンドをかけながらつぶやく。

 確かに、この一週間、晴れた日が一日もない。

「なんか、どうしたって目立つね」

 自転車置場から桜小路に出たところで、英子が誰とはなしに言った。

 英子が望む先、生徒がぞろぞろと登校してくる正門には、遅咲きの向日葵ひまわりが一輪。

 僕らは自然と向日葵を待ち、向日葵は僕らに気づいて手を大きく振る。

 みんな、おはよー。

 そんな声が、聞こえてくるようだった。

 向日葵は、ダンロップのロゴが入った、黄色一色のパラソルをさした部長だ。

 レースクイーンがよく手にしている傘は、大きくて丈夫と部長が好んで使っているのだけど、普通の傘に混ざると異様に目立つ。それを元より目立つ容姿の部長が手にすれば、英子の言う通り、どうしたって目立つ。

「おはよう! 今日は天竜祭の最終プレゼンよ。気合い入れていきましょう!」

 部長は合流するなり、元気よく声を上げた。

「準備は万端ですが……相手があいつですからね」

 斉藤が低い声を出す。英子が眉尻を下げ、僕はあの日の悔しさに唇を噛んだ。

 部長も表情を引き締め、

「でも私たちは準備に最善を尽くした。なら、後は挑むのみ。そうでしょ?」

 部長の言葉に、僕らは頷き合い、昇降口へと足を踏み出す。



「こんなバカな企画……」

 似たような言葉でも、発する人間でこうも違って聞こえるのか。

 僕は息を止めて、くらい感情をぐっと押し込める。

 放課後の生徒会室に、竜競部全員と顧問のみず先生、そして会長が一堂に会していた。

「校内レースなんて危険すぎる」

 長テーブルの上座に構えた教頭先生が、ぎょろりとした目を誰とも合わせずに言った。

「ですから、今説明した通り、安全には十分配慮しています」

 僕は嫌な予感を感じつつ、努めて穏やかに聞こえるよう反論する。

「そんなの当然だ。100パーセント安全でなければ駄目だ。そしてそれはあり得ない」

 またか。そんな思いに駆られる。

 もて耐参戦の時、教頭先生には、スポンサーである森崎さんが経営するコンビニの宣伝ポスターの貼り出しを、無理やり中止させられた。僕らは当然抗議した。正規の手続きを経て許可を得ていたからだ。にも拘わらず中止しろの一点張り。食い下がる僕らに、しまいには部活を停止させるとあからさまに脅され、中止せざるを得なかった。

 100パーセント安全? そんなものはこの世に存在しない。ありもしないものを要求する不条理。というか、それはあり得ないと自分で言って、なんなんだこの人。

「清水先生、こんな企画、私のところに持ってくる前に止めてもらわないと困ります」

 僕らの相手をしてもしょうがないと判断したのか、清水先生に矛先を向ける。

「しかし教頭先生、彼らは──」

 清水先生、とろくに話させず遮って、

「立場を理解されていませんな。なにかあれば、君の監督責任になる。そして君の監督責任は、私にある」

「責任なら私が取ります。教頭先生にご迷惑はおかけしません」

「だから、君には責任が取れないと言っている。万が一事故が起きて、生徒が怪我でも負ってみなさい。学校全体の問題になる」

「それは、そうですが……」

 答えに窮する清水先生を満足げに見届けてから、教頭先生は僕らに向き直る。

「前のやつと同じだ。駄目なもの駄目だ。報告会だけに収めるんだ」

 やばい……。僕らがなにを言おうと許可するつもりはない。打開策が見出せない。

「昨年末、教頭先生が急遽導入された新しいかみおりですが、とても役に立っています」

 しんとしてしまった生徒会室に、そんな声が差し込む。

 声の主は、パイプ椅子に姿勢正しくしている生徒会長。

「紙折……キ?」

 英子がつぶやき、僕は生徒会室の奥に顔を向けて、それを見る。

 自動紙折機。一見プリンターに似た、角ばった無骨な機械。紙の差込口があり、ボタンを押せば自動で紙が折られる。

 以前僕は、これはなんの機械か、会長に尋ねたことがある。その名の通り、紙を折るだけの機械だと教えられて驚いた。しかもこの紙折機、五十万円近いんだ。

 手で折ればいいのにという思いを、そばに積まれた二千枚の紙の束に潰された。生徒会は全校生徒に配る冊子やしおりを作るのに、大量の紙を折らないといけないんだ。

「最新の紙折機になってスピードが上がりました。と言っても五分程度の短縮で、廃棄された古い紙折機は故障している訳でもなく、十分使えました。でも──」

 会長は音もなく立ち上がり、斜め前の教頭先生に顔を向ける。

教頭先生には買い替えが必要だったんですよね」

 生徒会室に緊張が走る。

 会長が、教頭先生の疑惑に直撃した。

 森崎さんのコンビニの宣伝ポスターを中止させたのは、教頭先生がこんにしているコンビニのためだった。そのコンビニは元々文房具店で、学校が文房具を購入するにあたり、教頭先生がその元文房具店に便宜を図っている。そんな疑惑があった。でも懇意も便宜もあくまで噂話。噂話では疑惑を追及できず、僕らは泣く泣くポスターを剥がしたんだ。

 そして、自動紙折機も、元文房具店から購入する備品だ。

「生徒会の会計は複式簿記で帳簿に記帳されていて、お金の動きは完全に把握できます。それは教頭先生もご存知の通りです」

 口を変な形で強ばらせている教頭先生にかまわず、会長は続ける。

「先日、毎日手にしている帳簿に違和感を覚えたんです。いつもと持った感じが違う。なんか薄いなって……。それで私、帳簿を調べて腰が抜けちゃいました。だって──」

 会長が体温を測るように自分の額に手をあて、口だけで乾いた笑みを浮かべる。

「帳簿の一部が、なくなっていたんですから」

 教頭先生の顔から、ありありと血の気が引いていく。

「私、大人ってもっと立派なものだと思っていました。私もそこまで脳天気な人間じゃありません。悪いことをする大人もいる。でも、こんな身近にあるなんて……」

 会長は脱力したように腕を垂らし、でもその手は、固く握られていて、

「かたや子供だと思っていた彼らは、精一杯努力して、困難にも負けないで、最後まであきらめずにやり遂げた。うらやましいと思うほど輝いていた。彼らの方がよっぽど大人だった。結局私は、斜に構えた頭でっかちの子供だったんです」

 僕は息を呑む。まつげを伝い、零れた涙がメガネに落ちる。

「なにより悔しかったのは、この生徒は扱いやすい、利用しやすいと思われていること。帳簿をいじればバレやない。私、すいぶん物知らずな子供だと思われてるみたい……」

「清水先生!」

 教頭先生が、騒がしく音を立てて立ち上がる。

「この件はあなたに任せます。報告は密に。事故は絶対に起こさないように」

 教頭先生は生徒会室から逃げるように、いや、逃げ出した。

 会長は涙で濡れたメガネを外して、大きくため息つく。 

「……恥ずかしいところ、見られてしまったわね」

「美奈」部長が会長に歩み寄り、その手を取る「竜競部にいらっしゃいよ」

「どさくさで勧誘しないでちょうだい。私に投票してくれた人たちを裏切るつもりはない」

「会長、これ」

 英子がハンカチとメガネ拭きを差し出し、会長は目を細めて受け取る。

「七尾、なんというか……俺の力不足だ。すまない」

 沈痛な面持ちで言った清水先生に、会長は目元を下げる。

「いいんです。それよりこの件は放っておきましょう。追い込んだら、たぶんヤブヘビ」

 冷静で、順当な対処だと思った。だから異存の声は上がらない。

「本当に、あいつなんなんだ」

 斉藤が忌々しげに拳を膝に落とす。

「あなたたちのやりたいことはできるんだから、そのくらいは飲み込む度量を見せてちょうだい。大人のあなたたちなら、できるでしょ」

「意地悪な美奈のままで安心した」

 部長がそう言って、会長の背中に手を回す。

 会長はちょっとスネた顔をしてから、部長の背中に手をあてる。

「あ、心、部長を止めて早く!」

 突然英子が僕の腕を引っ張り、

「止めてってなにを──」

 英子に顔を向けたのと同時だった。かわいい悲鳴が生徒会室に響いたのは。

「な……な……なにしてるのよあんた!!

 ひっくり返ったのか、会長はパイプ椅子にしがみつき、赤くした頬に手をあてていた。

「なにって、親愛のキスじゃない」

 部長のスキンシップは頻度が上がったけど、その濃度も上がっていた。

 英子が部長のハグを阻止するようになったのも、つむじにキスされたのがきっかけ。あの時の英子も、今の会長みたいにひっくり返っていたっけ。

「なにが親愛よ! 誤解されたらどうするのよ!」

 相手が会長だから油断していた。英子は、あちゃーと手で顔を覆っている。

「それ英子にも言われたけどさ、別に誤解させておけばいいじゃない」

 ダメだ。この人に日本的な常識は通じない。

「生徒は百歩譲っていいとして、先生方に見られたら面倒なことに……ちょっと待って」

 会長が靴底を床に叩きつけるように奮然と立ち上がる。

「清水先生いらっしゃるじゃない。ちゃんと指導してください!」

「そ、そうだな。でもこのくらいはいいんじゃないか? ほら、口と口じゃないし」

「なに言ってんのこの人……」

 声に出てます会長。

 会長は顔をはっとさせ、せわしなく英子に顔を向ける。

「和泉さん、瘧師はあなたにも!?

「私最近、部長の耳に念仏って言葉を覚えたんです。会長もガードを堅くしてください」

 まさか……と会長は恐ろしいものを見るように、男子ふたりに顔を向ける。

「大丈夫です。部長もそこまで……じゃないので」

「ちょっと心くん、そこまでの後の、変なはなによ!?

 部長の抗議をよそに、会長はパイプ椅子に崩れるように腰を落とし、長机に突っ伏してしまう。そのうち肩が揺れ出して、ついには宝箱の蓋が開くように体を起こし、口を大きく開けて笑い出す。

「私、ほんと井の中の蛙。こんなにも自由に、思うのままに生きていいんだってことも知らなかったんだから!」

 おかしくて堪らないと目尻に涙をためて笑う会長に、僕らは呆気にとられる。

 でも、段々と頬が緩んでいく。

 笑いは伝染する。

 部長がふっと息をついて笑い出し、それが、みんなの笑いの栓を弾き飛ばす。

 あの日と、部長と出会った時と、同じだった。

 部長の名字、瘧師をギャクシィと聞き間違えたことを、部長はお腹を抱えて大笑いした。

 だから僕は遠慮なく、腹の底から大笑いする。

 そうして始まった僕らの冒険は、最高のものになったのだから。

続きは「天竜川高校 竜競部! 友情リレーションズ」にてお楽しみください! 続きは「天竜川高校 竜競部! 友情リレーションズ」にてお楽しみください!

BOOK

表紙

天竜川高校 竜競部! 友情リレーションズ

  • 著者:郁子匠
  • イラスト:左折
  • 定価:本体740円+税
  • ISBN:9784896379327
  • 発売日:2019年10月19日

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